2018年7月25日、通院3回目の日がやってきました。
順調であれば胎児は2.5mmくらいのはずが0.7mmしかありませんでした。
いや、そんなことよりも
赤ちゃんの心拍が確認できない。
先生が、悪意はないがなんとなく感情のない、でも丁寧な口調で、心拍が確認できないことの説明をしてくれました。
とにかく、心臓が動いていないかもしれない、という診断です。
「かもしれない」というのは、エコーの角度や赤ちゃんの位置、もしくは他の要因によって一時的に心拍が確認できないことがありえる、ということでした。
あとでわかったことですが、この状態では望みは薄いようです。
とりあえず、1週間後に再来院ということになりました。
病院の帰り、車内には不安感が漂っていました。
家に帰ると妻は、赤ちゃんの心拍停止について熱心に調べ始めました。
ある程度調べ終えて、心拍再確認への期待が薄いことを悟った妻はしだいに心拍停止の理由を探し始めたようです。
ちなみにこのときの僕たちは、年齢による流産の可能性を知っており、僕たちの場合それが20%くらいだということも知っていました。
僕はすでに最悪の事態を覚悟しているし、この原因が誰にもないことをわかっていますが、妻にはまだ無理なようでした。
その後も妻はスマホで調べる事をやめようとせず、「自分のせいかも」と思うこともやめようとしません。
・・・
妻の頭の中は赤ちゃんの心拍停止のことでいっぱいのようですが、夕飯の時間なのでごはんはしっかり食べないと。
その夕飯、妻はサラダを残しました。
食事担当の僕としては、(妊婦の)妻の食べ残しはかなり腹がたちます。
妻は野菜嫌いでよくサラダを残しますが、この日は状況が状況なので僕としては「まあ、しかたないか」という気持ちでしてた。
が、その後まもなく
なんてわがまま、
ブチッ
食事中も自分を責めるような発言をし続けていた妻の、「野菜残しのフルーツくれ発言」に僕はキレてしまった。
いい加減あたまにきた。
自分のせい自分のせいってうるさいよ!
だって普段から小さなことにも気を遣って自分の落ち度が本当にない、と確信できていれば、きっと自分のせいなんかではない、と素直に思えるでしょ?
そういう普段の生活と心構えの小さな積み重ねが体にも心にも大事だと思うよ。
・・・
妻はどうして自分を責めるんだろう。
先生や誰かに、「お母さんのせいではないですよ。」と言ってもらえれば、納得できるのだろうか。
それとも逆に「お母さんのせいです。」と言われたほうが受け入れられるのだろうか。
いずれにしても、「自分のせいかも」と疑わずにはいられないのかもしれない。
本当は、誰のせいか、ということはどうでもよくて、悲しみと辛さ、怒りの感情をどこにぶつければいいのか、どう処理すればいいのかわからないだけなのかもしれない。
翌日(7月26日)
妻は普通に仕事をしてきて冷静になったようです。
次にどうするか前向きに考えることにしました。
この日の昼間、僕もネットでいろいろ調べ、昨日の僕は妻に言い過ぎた、妻の気持ちをよくわかっていなかった、と反省し、妻に謝りました。
他の妊婦さんの体験談を読んでわかったことがあります。
「これは男にはわかりえない。」ということです。
男の僕が論理的に考えようとすることに問題があるんです。
だってこれは「感情と思いの話」なんです。
ごめん。
セカンドオピニオン
1日たって前向きに考え始めた僕たちは、セカンドオピニオンをどうしようか、と話し合いました。
仮におなかの中の赤ちゃんがすでに亡くなっているとして、(医学的には、もしくは法的には「死」ではないかもしれませんが)「死」という判断を1人の医師、1つの病院で判断してもいいものかと思いました。
万に1つの「希望の確認」ではなく 「死亡の確認」が必要なのではないかと。
ということでセカンドオピニオンの目的でクリニックCに行くことにしました。